2011-04-30
■花言葉
昨年より9〜10日遅れの桃の花も散り今はハナミズキが花盛り。
やや遅れた春に萌える山と花水木が見える道路の先に東八聖苑があります。

母親が他界致しました。
享年八十四歳、4月22日に永眠しました。
画像は葬儀の24日のものではありませんが
前日の雨の通夜とうって変わって素晴らしく晴天で
雲ひとつなく正面のアルプスが見事で、最後の別れになる
斎場に続く道を母と行きました。

母親はあまりこのHPに登場することはありませんでした。
それは実は丁度このウェブサイトを立ち上げた直後に転倒、複雑骨折から始まって腎臓の手術、再度転倒等入退院を繰り返し、仕事も勿論、不自由な生活に入った為です。
当時、webサイトをホームページと称し(今でもそう呼びますが)農家である我々の生産に携わる顔、家族をご紹介することも勤めと思って参りましたが、そのような事情で掲載する機会がありませんでした。しかし車椅子での生活となるまでは、父の亡き後、また私が就農して桃や他の作物に転換しサイト開設時の10年前までは本当によく働き助けてくれました。
この2年は一年を通じての施設暮らしとなり、長い闘病生活もあってやや認知症もありましたが、まだまだ元気で話もして長生きするであろうと思っておりました。
が、体調を崩し節食嚥下障害になると医師の心不全の指摘通り、思いのほか体力がなく日に日に弱り、僅か3週間で逝去しました。
前日には家にも戻り、父や兄の遺影を見て名を呼び、見舞いに来てくれた人々と言葉を交わし、まだ一ヶ月や二ヶ月は思っていたのですが一旦戻ったその翌日に我々夫婦と孫の見守る中、文字通り眠るように逝きました。
3年前の同じ4月に伯父(母の実兄)が他界した時もこの生業綴りに書きました。伯父は4月3日で桜の散り際でした。生前、母も私も本当にお世話になった伯母(母の実姉)は今年の1月2日に他界しまして立て続けで、寂しさが増しています。
40年前、連れ合いに先立たれ、30年前には息子にも先立たれ、16年前に息子に代わって母を支えた祖母を看取り、幸薄く苦労の多い人生だったと思いますが、挫けず前向きで精一杯生き、我侭なところもありましたが、情が深く裏表無い性格でよく笑い、よく泣き、身内の皆に甘えさせてもらい、40年来の糖尿病を持ちながらも欲を言えばきりがありませんが天寿を全うしたと思っています。
花を手向け、言葉を掛けてといわれた時は「ご苦労様。さようなら。あの世で待ってる皆に宜しく、俺も何れ行くからな」と言う外なかったのですが、親を両方亡くした今はやはり寂しいものです。
しかし、この度の東北の震災で亡くなられた方々、残された遺族の皆様の事を思えばなんと仕合わせなことか。無念で悲しみに暮れる余裕も無く前を向いていかなければならない人々がなんと大勢いることか。
火葬を待つ中の、叔父達の画像を息子が撮っていました。残る兄弟、伯叔父、叔母達には、まだまだ元気でいてもらいたいと思います。

真言宗智山派円楽寺の住職から法名を「恵明院桃林貞香大姉」といただきました。方丈さんの信念で意味は語らないとの事で、読んで理解してくださいとのことでした。「ではそれぞれの憶測でよろしいのですね」申しますと「そのように」と。母にしては随分乙女チックな戒名だなとも思いましたが、桃の字も入れていただいて母も喜んだことでしょう。

家内はよく看てくれました。祖母や母を看、寂しさの中にも肩の荷は降ろせたかもしれません。母親は晩年は私より家内の名をよく覚えていました。「よい嫁じゃんね」とお愛想を言い、俺は誰よと聞くと「あんたじゃん」とボケをかまし最後まで真性なのかすっ呆けなのか私は疑ってました。笑

近所や身内にも「おばあさん、本当にいい時に行ったね。最高の陽気で忙しい盛りじゃないし」と言葉掛けて貰ってます。本当に母にしては上出来でした。こればっかりはどうしようも無いのですが、4月4日が命日だった祖母。そして、親父、兄貴、伯父、伯母スタッフが天で段取りを組んだとしか。皆に褒められて逝けた事に先祖にも感謝し、お線香をあげる日々です。

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そのようなわけで、この間サイトの更新が滞りました事(いや、それは珍しくないし)、受注業務に若干支障がございました事がありましたらお詫びを申し上げます。web上にて店舗運営をしています限り、「親が死んでも確認メール」と常日頃努めておりましたが(女房が)、何らかの不都合がございましたらどうぞご連絡ください。
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